看取り

11/4に義母が永眠した。
7月の時点ではまだ庭に出たりコンビニに買い物に行ったりしていたが
膀胱いっぱいのがんは足の浮腫を引き起こし、歩くのがかなり困難になった。
私は毎日両足に合計6本の包帯を巻くのが日課になってそれはかなり続いた。
一カ月ごとに悪くなる、と言われたものの実感はなく振り返ると本当に
1か月、1週間ごとに悪くなっていった。
看護士の訪問は週1から最終的に週4になり、ヘルパーは意外と役に立つことはなかった。
最期の1か月くらいは私と夫が交代で泊まり込んだ。
ブザーをつけて、夜中に何度も起こされたこともあった。
麻薬の量はどんどん増えて、薬を自分で飲み込むのが難しくなり点滴の麻薬と
張り薬の麻薬を併用したころから意思疎通は難しくなった。
そのちょっと前から歩行も無理でおむつをあてた。
毎回どの介護をしても「悪いね」と言ってしくしく泣かれることが多く
それがつらかくていつまで続くんだと思ったけど振り返れば
あっという間だった。あっという間に要介護2から5の病人を
ダイジェストで看病したという感じ。
介護中は私の自由が利かなくなり、
「これが終わったらあれをしたい、これをしたい」と思うことで
乗り切っていたが、自分の自由が義母の死によってもたらされることが
なんともいえない罪悪感がすごかった。

そもそも抗がん剤をやるかやらないかのところからいろいろな
選択を私たちが、しかも主に私がしなくてはならなかった。
義理妹が来てくれたのは助かったがメインは私だったので
私がつらいなら緩和ケア病棟に入れてもいいのでは、という
話し合いもあった。しかしそれは「探してる間に亡くなる可能性が高い」と言われて
見送った。言われたときはほんまかいなと思ったが
そのあたりから1日ごとにどんどん悪くなり、
最期は骨に皮膚がはりついているような状態なのに
胸から下は異常に浮腫みどこを触っても痛がり
9割五分は寝て一日にわずかな水分だけをとって
それでも最後の最後までしっかり脈はあった。
排尿もあったし、脈も血圧もしっかりしてたから
あんなにあっさりと私が朝ごはんを食べている間に逝ってしまうとは
予想外だった。
その瞬間には実子のみが立ち会っていたので
それはそれでよかったと思う。

義母宅は住む人がいなくなった。
今は毎日線香をあげにいっているが、
私が仕事を始めたらそうもいかなくなると思う。
今は本棚を置こうとか、ピアノを移動させようとか言っているけど
私たちの思い付きがどこまで維持するのかはわからない。